暑い暑いと繰り返していたら8月が終わりまだまだ残暑が厳しいと汗を流していたら台風が9月をお持ち帰りして10月。涼しくもなったしもうこのまま秋が続けばいいじゃないか。いっそのこと。
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そういえば神聖かまってちゃんの新曲を聴いたらの子の中で問題に答えが出て夏休みが終わったんじゃないかという話がしたかったんだった。
要はの子が自分語りをする時期はとっくに終わって他人から共感される存在から他人に共感してあげる存在に変わっちゃったんじゃないかって話。
なんで忘れてたかって思いついたときにはおもしろそうな気がしてたけどたいしておもしろくもなかったしなによりもう飽きた。
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神聖かまってちゃんがなんでヒットしたのって話になると「ネットでの話題作り」と「共感」ってのが必ず入ってくるキーワードで、ナタリーでもなんの記事でも必ず出てくるような気がします。そういえばカミスンではひきこもり経験を歌って若者の共感を呼び大ヒット、みたいな紹介のしかたをしてましたね。
神聖かまってちゃんが共感されて大ヒットってそりゃそうなんだろうけど今までの神聖かまってちゃんを見てるとの子は共感を得ようとはまったくしてなくて好き勝手にやってたら聞く人が勝手に共感していたように見える。例えば「死ね」はの子の言葉であっての子がそう言ったら「死ね」って思ってたけど実際に言えなかった人が自分の言えなかった事を言ってくれた、と代弁者扱いをする、の子も同じことを思ってた、と共感する。けっきょくの子の自分語りに自分を投影させての子の歌詞や言動を通じて自分で自分に共感してるように見えなくもないのですが。の子のストーリーが聴く人自身のストーリーになってた。
まあそうするとナタリーを始めネットの音楽系サイトでも若者の共感を得て熱狂的な支持を得たって反応はそりゃそうだと。共感されてヒットしましたなんて誰かが大ヒットとばすたんびにその理由は共感されたからで片が付いちゃうんであんまりおもしろい理由でもないんだけど実際にそうなのかなあと。神聖かまってちゃんに共感するってよくわかりませんがそういう人もいるんだろうなと。
それよりはたまに神がかった曲を作るとか高い音楽性がうけたという説明のほうがそうだよねえって思う。けーどーもー、たくさんの人が神聖かまってちゃんに共感してるということにしないと話が進まないのでねえ。
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なんの話かって9月の末にYouTubeにアップした「鳥みたくあるいてこっ」と「ベルセウスの空」、その後1週間ほどしてもう1曲アップした「友達なんていらない死ね」の3曲を聴いての感想。
この3曲、曲調は相変わらずの神聖かまってちゃんの曲で、ということは好きではない。神聖かまってちゃんを聴いててもだいたいはまとまりがないというか、通して聴くとものすごく散らかってるとか、歌詞やメロディーがものすごく一本道な印象が強いんであまりおもしろみを感じないし1曲通して聴くのも飽きてしまう。黒いたまごや夜空の虫とどこまでもを聴くと天才だとしか思えないし美ちなる方へや死にたい季節なんてすごくいい曲なのになぜかだいたいの曲は「つまんね」としか思えない。この「つまんね」が深夜のファミレスで消費される郊外の退屈なんだよって言われるとなるほどそれっぽいねえと思うけどそういう退屈にはなるべくお近づきにはなりたくないですわね。
一方で歌詞を読むとこれまでとずいぶんと印象が変わっている。
特に鳥みたいにあるいてこっではの子が聞く人に対してものすごく歩み寄ってる気はします。君たちのこともわかるよって共感してあげるよって世の中は厳しいけど一緒に歩いて行こうって語りかけているようにしか聴こえなかった。はーこんなこと言うんだって。今までは「ぼく=の子」でしかなかったのが「ぼく=神聖かまってちゃんを聴いている人」にもなるように意識してるのかなと。しかも観察してるだけでは君がいるストーリーに僕は会えないというようなことを歌うとは思わなかった。動かないと僕は君に会えないし君も僕に会えないってなんか前向きになったじゃないですか。少女ファイトで由良木が俺もサラちゃんの世界の登場人物になりたいみたいなことを言ってたのを思い出しますね。
ベルセウスの空はたぶん物語を語ろうとしている。けっきょくの子の自分語りなのかもしれないけど、死ぬとか死ねとか死にたいとか直接的に歌ってたり自分の問題やら悩みやらを具体的に歌ってたりしてたのがここでは抽象的に語ることで問題意識の小ささをもっと普遍的とか一般的とか大きなところに持って行こうとしたのかなと。よくわかんないんだけどさあ、それっぽいじゃないですかそういう説明すると。私小説的であるとするならフィクションの配分が大きい。曲調もゲーム音楽とかアニメソング的な壮大さを感じるんで物語を語ろうとする意識があるような気がする。DJみさこがサンホラ好きだって言ってたんで曲にストーリー性をもたせようとした気がする。
ただこの2曲って言葉づかいがクリシェっぽい感じはします。言葉の組み合わせのおもしろみは感じない。こういうクリシェがカモフラージュで実はその比喩で解釈するとわからない何かがあるんだよってそこまでうがった見方をする必要はなくて、なぜならばそこまでするとの子にしかわからないってことになってそれを独りよがりと呼ぶんだよね。従来の解釈するフレームから飛び出したいるから従来の解釈が成り立たない、新しい表現の地平を開いたとかそんな感じのことどっかに書いてありそうじゃないですか、でもそこまでぐちゃぐちゃ言わないと肯定できないってのは実はそんなにおもしろくないんじゃないのって気はしてる。悪く言えば陳腐なんだけど良く言えば他人に伝わることを最優先して独りよがりから脱却した。
この2曲のあとだと友達なんていらない死ねは死ねがファンサービスになってるんじゃないのかなって。歌詞を読むと夕方のピアノみたいに誰かに死ねと言ってるのではないと思うので。タンバリンで首を吊って死んじゃった君に捧げるなんとかじゃんね。たぶん。要はの子が死ねって思ったから死ねって歌ってるんじゃなくてぼくはもうその時期は過ぎたけどきみたちは死ねって言いたい相手がいる、だから代わりにぼくが叫んでやるよってのがたぶん今。
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ひとことで言えばの子ってもう今までの問題に答えが出ちゃったんだなって。みんなが大好きな新世紀エヴァンゲリオンで例えると、テレビ版の最終回でシンジくんがおめでとう!ってみんなに言われて拍手された、あの状態をすぎたんじゃないかなと。だからと言ってまだわからないお前らばかとか言わずに君たちはこう考えてるんだよねっていうところに行ったような気がする。
の子のなにがどう変わったかどうかはおいといて、僕が行くか行かないのかってだけでストーリーには2ページ目があるなんて歌ったらそりゃの子はストーリーの2ページ目に行ったんだよねって思いますよね。代弁者であることを自覚して振る舞ってる、でその状態で作った曲がこの3曲ってなればなるほどねーって。
そういえば昔々の話になるけどいがらしみきおのぼのぼのが好きな男の子が言っていた。「ぼのぼのはぼくのやりたいことを代わりにやってくれる」。実はぼのぼのまったくと言っていいほど読んでないんでこの少年の言葉の意味がいまだによくわかりませんが、神聖かまってちゃんもそういうバンドなんじゃないのかなって。の子=ぼのぼのでそんなに外れてない気がする。
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最近いろいろと愚痴を言ってても始まらないので心を入れ替えて「
floating view 郊外からうまれるアート」なんて読んでみたりしてて、ここまで筆舌を尽くさないと肯定できない郊外ってなによってやっぱりだめじゃんって思いを新たにしました。そもそもアートがうまれるのに郊外をポジティブに捉える必要なんてなくてそれこそみんな死ねとかつまんねとかお前ら嫌いとか滅びろとかそんなネガティブな感情でもアートになるんじゃないのって。神聖かまってちゃんがわからないなんて言ってる人は郊外に住むか千葉ニュータウンにでも巡礼に行くとよくわかるようになると思います。
なので郊外からうまれるアート、なんてのがあるとしたら神聖かまってちゃんはたぶん最先端ですね。